――数年前  幻想教本部・廊下 「こっちへ!」 「うん!」 ある嵐の夜、明かりもまばらな廊下を走る二つの影があった。 片や、この宗教組織を束ねる長たる少女。名を東風谷早苗。 仔細は省くが、彼女はシンデルマンと名乗る狂科学者によって利用され、名ばかりの教祖として祭り上げられ、力なき己に絶望し、心を閉ざしてしまっていた。 片や、かつての友として早苗の暴走を止めに走ったバウンティハンター。名を朱鷺子。 彼女は早苗の元に至ってようやく真実を知る。だが早苗を救うことは叶わず、捕らわれの身となってしまった。 しかしながら、彼女との邂逅は、早苗に少なからぬ影響を与えた。絶望によって心を閉ざし、もはや生き人形同然であった早苗の目に光が戻ったのだ。 二人の邂逅は、幻想教の幹部たちにとって最悪の誤算だった。 自我の戻った早苗はそれまで野放しだった幹部に強く出るようになり、行動に目を光らせるようになったのだ。 それまで「早苗の意思」の御旗の下に好き放題に振る舞ってきた幹部たちには、これが酷く癇に障った。 行動の名目が失われるだけではない。ともすれば、教祖たる早苗に逆らう者として自分たちの地位さえ危うくなるからだ。 元より早苗への帰依心など無く、横暴に振る舞っていた者たちである。早苗への反感が爆発するまでに、さしたる時間はかからなかった。 やがて彼らは、早苗の前でこそ従う素振りを見せるようになったが、裏では以前にも増して暴虐な振る舞いを見せるようになる。 あまつさえ、早苗を軟禁状態に置くことで、それらに目が届かぬように仕向けることさえやってのけた。 これには、早苗が所詮は操り人形に過ぎないことを思い知らせ再び絶望させることで、幹部たちが教団の指導権を取り戻そうとする意図も含まれていた。 早苗は再び絶望の淵に沈むかに思われた。しかし、一度絶望から這い上がった彼女は強かった。 幹部の誰もが予想しえなかった、出奔という道を選んだのだ。これは彼女にとっても苦渋の決断だった。 最初に朱鷺子から脱走を提案された時は、石像にされた神奈子と諏訪子を置いては行けないと拒んだ。こればかりは、いくら朱鷺子の言葉でも覆すことはできなかった。 しかしある夜、祭壇で石像と化した神奈子と諏訪子に祈りを捧げていた早苗は、彼女たちの声を聞いたのだ。 それは、神奈子と諏訪子からの、最後の通力を振り絞ったメッセージであった。 『例えこの身が石に封じられていようとも、我らの心はいつも早苗と共にある。行きなさい、そして生きなさい。我らの愛しい娘よ…』 頷いた早苗の目に、決意の炎が灯る。 彼女は涙を拭って立ち上がると、その足で朱鷺子の所へ向かい、脱出の意思を伝えた。 かくして、数ヶ月に及ぶ秘密裏の計画と準備の末、今日この時を以て脱出計画は実行に移されたのであった。 二人は、時には段ボール箱に身を隠して巡回するブタマスクたちの目をやり過ごし、時には背後からのニンジャキル(峰打ち)で昏倒させ、ついでに彼らの所持アイテムを拝借しつつ、先を急いだ。 しかし、予定していた脱出路が半ばに差し掛かったところで、二人の前に大きな影が立ちはだかったのだった。 「ミスター・B…!」 男の名を口にして、早苗は顔をしかめて後ずさる。 ミスター・B。重厚な装甲服に身を包み、その外見通りの圧倒的防御能力から「大盾」の号を戴く、教団の幹部・六魔将の一人。 その本名は幹部でさえ知らず、フルフェイスの兜で覆われた素顔を拝んだ者はいない。 教団の行事にも滅多に顔を出さず、早苗も何度か写真で姿を見たのと、職務に忠実であるという噂を耳にした程度しか彼のことを知らない。 それ故に厄介だ。他の魔将たちであれば、その性格から応援を呼ばずに手柄を独り占めしようとすることが容易に予想されるため、うまくやれば出し抜いて倒すこともできるだろう。 だが、目の前の彼は違う。知り得る限りの情報が確かなら、彼は己の職務に忠実、言い換えれば教団に忠実なのだ。 彼は躊躇無く応援を呼ぶだろう。そうなれば多勢に無勢、二人しかいない早苗と朱鷺子に勝ち目は無い。 捕まれば早苗は本格的に自由を奪われ、朱鷺子は早苗を誑かしたとして処刑されるだろう。あるいは、揃って洗脳され、自分の意思さえ奪われるかもしれない。 どちらにせよ、脱出のチャンスは二度と巡ってくるまい。今ここで、彼を打ち倒す他に手は無い。 だが、彼は見た目通りの圧倒的な堅牢さを誇る。生半可な攻撃では通じなかろう。まして、満足な備えのない今の二人では、戦ったとしてジリ貧なのは確定的に明らかだ。 疲弊したところを捕まれば、援軍など無くとも一巻の終わりである。完全に打つ手無しということだ。 知らず知らずのうちに、早苗の額には冷や汗がうっすらとにじんでいた。 「……」 だが、冷や汗をにじませる早苗を他所に、ミスター・Bは動かない。ただ、兜の奥から覗く紅い瞳が、じっと二人を見つめているだけだ。 どれほどそのまま対峙していたか、不意にミスター・Bは瞳を細め、わずかな動きを見せた。 怯えて身を強ばらせる早苗。それをかばうように朱鷺子がその前に立ちはだかるが、動いた腕はしかし二人の方には伸ばされなかった。 何と彼は、そのまま兜のバイザーを降ろし、視界を完全に覆ってしまったのだ。 訳の分からない行動に、二人は唖然とする他無い。 「……見えない。何かいたの? 俺の視界には何もないな」 「え…!?」 「なっ!?」 驚く二人をさらに驚かせたのは、その口から発せられた言葉だった。 「俺は何も見なかった。俺の気が変わる前に早く行くべき、死にたくないなら行くべき。普通ならここで見逃さないのがぜいいんだろうが俺は見逃してやる俺は優しいからな。  俺は北口の警備を任され手だが俺は不良だから定時交代はしないしあと一時間ほどここで時間をつぶすだろうな」 まくし立てるような言葉の羅列に、二人は目を白黒させる。 どうにか理解できたのは「見逃してやる」と「北の搬入口の見張りをサボっている」の二つ。 つまり、彼は二人を捕まえる気が無いということだ。それどころか、彼は二人を逃がそうとしている節がある。 「ど、どうして……」 「どうだっていい、今がチャンスだ! 行くよ、早苗!」 「え、あ、うん!」 呆然としていた早苗は、朱鷺子に促されてやっと我に返り、走り出した。 しかし、北へと続く通路を駆ける最中、早苗は足を止めぬままにふと後ろを振り返る。ミスター・Bの口調が、自分のよく知る男とそっくりだったのが気にかかったのだ。 ――かつて、まだ世界が平和だった頃。 早苗の母校である陰陽鉄学園に、一人の男子生徒がいた。その名をブロント。 彼はナイトに強い憧れを抱き、自分もまた理想に違わぬナイトたるべく研鑽を欠かさぬ男だった。 だが一方で、その素行は決して良くはなく、自らも不良を標榜する不思議な男であった。 その彼の特徴の一つが、ブロント語とも呼ばれる独特のしゃべり方にある。 何を言っているかよく分からないのに言いたいことは伝わるという不可思議な語り口は恐ろしいほどの影響力を持って伝染し、彼女もまた少なからず影響を受けた一人なのだ。 その耳慣れた言葉が、顔も知らないはずの男から発せられた。それも、ブロントを真似たようなものではなく、自然なものとして。 嫌な考えが早苗の脳裏を過ぎる。 (ブロントさん…なの……?) 胸の中でその名を呼び、しかし頭を振って直ちにその考えを否定する。 彼は不良じみてこそいたが、その実は義侠心に溢れ困った人を見捨てておけない性質だった。 そんな彼がこんな教団で幹部などという地位に甘んじるはずは無い。むしろ、全力で教団に喧嘩を売ることだろう。彼はそういう男だ。 ならばあれはブロントではない。彼に影響を受けた何者かがたまたまここにいた、それだけのことだ。 そう結論づけ、早苗は再び走り出した。 そして、ミスター・Bの言葉通り北側の警備は手薄で、二人は易々と警備線を突破。かくして、二人は脱走を果たしたのだった。 彼女が至った結論は、半分当たりで半分間違っている。 彼女は後に、それを最悪の形で知ることになるのだが、それはまた別の話だ。 ――半年後  早苗と朱鷺子の隠れ家にて 「本当にいいの、早苗? ボクが言うのも何だけど、バウンティハンターは命懸けの厳しい世界だ。  誰にも明日の保証はされない。それでも君はこの世界に飛び込むの?」 「……ええ。覚悟はもう済ませたわ。私はもう、何も出来ないままではいたくないの。  これ以上、幻想教を野放しにしては置けない…!」 朱鷺子の問いかけに、早苗は決意に満ちた眼差しと共に頷いて答えた。 あの脱出劇から半年。早苗はこの半年で、変わり果てたこの世界を歩き続けてきた。 その行く先々で、教団の者たちと衝突したのも一度や二度ではない。自分の素性を隠すために被っていた怪しげな仮面のおかげで面が割れなかったのは幸いだったが、一向に衰えないどころか増すばかりの教団の勢いに、早苗はわずかな疑問を抱いた。 そんなある日、彼女は街角に貼られた一枚のポスターを目にする。そこに書かれていたのは、幻想教の相も変わらぬ入信募集の文言と……自分によく似たナニカが写った写真だった。 早苗は全身の血が凍り付く音を聞いた。 何故この可能性を考えなかったのかと何かが囁いてくる。あるいは、考えていても目を逸らしていたのかもしれない。 教団の幹部(と言っても、実際にそんなことが出来るのはシンデルマンだけだろう)が早苗の紛い物を作り上げ、それを本物の代わりに教祖の座に据えたのだ。 自我を持たない紛い物を操るなど造作もないことだ。彼らはそれを操ることで自由自在に「早苗の意思」をでっち上げ、自分たちの気が向くままに暴虐の限りを尽くせる体制を作り上げてしまったのだ。 全てを悟った彼女は膝から頽れていた。自分の出奔が結果としてさらに事態を悪化させた事実に、再び絶望が彼女を蝕もうとする。 だがその時、背負っていた剣斧が何かを訴えるように脈動し、わずかに熱を帯びる。 それは、かつて神奈子の御柱から柄を削り出し、諏訪子の鉄の輪を鋳溶かして打った刃を取り付けて作られた、早苗オリジナルの剣斧。銘は「神剣斧【モリヤ】」。 その柄を握り締めて絶望を振り払い、早苗はその場を後にした。その瞳に、決意の炎を宿して。 それからの早苗は、人が変わったようであった。 それまでのスペルカードや魔法に頼る戦い方ではなく、剣斧による接近戦を主体とした戦い方へシフトし、それに併せて体も鍛えられた。 羽織の袖は腕の動きを阻害しないように短くされ、袴は実戦装備である迅竜のレギンスへと姿を変えた。 長い緑の髪は過去との決別の証として短く切り揃えられ、凛とした表情からはかつてのどこか甘えのある面影など微塵も窺えない。 そこには、闘う者としてたくましく成長した姿があった。 「……分かった。早苗の覚悟、しかと受け取ったよ。これからは、早苗も一人のバウンティハンターだ」 簡素なテーブルを挟んで睨み合うことしばし。そう言って頷く朱鷺子の顔にあるのは…わずかな、笑み。 彼女は早苗を止めたかったのではない。ただ、その覚悟を試しただけだ。 しかし、それさえもあまり意味は無い。何故なら彼女はこの数か月、ずっと早苗と共に戦ってきているからだ。 早苗が既に戦う覚悟を決めていることは、誰より彼女が一番知っている。 だからこその問い。もしも今になってその答えに迷いがあれば、朱鷺子は直ちに早苗の希望を一蹴しただろう。 「ありがとう、朱鷺子。……ところで、一つ考えたんだけど」 「なに?」 「ずっと考えてたんだけど、私はこれから先、東風谷早苗であることを隠さなきゃいけない。  今の世界で、私の名前はすごく忌み嫌われているから。だから私は、今日限りでこの名前を捨てる」 「それは……本気かい?」 「ええ。それで、新しい名前ももう考えてあるの。  ――エウロス。それが、私の新しい名前。どう?」 「エウロス……東風、か。うん、早苗らしい良い名前じゃない?」 「ふふ、ありがと」 「それじゃ、改めてこれからもよろしくね、早苗……ううん、エウロス」 「ええ、よろしく」 力強い微笑みと共に、二人はがっちりと握手を交わす。 こうして、ここにバウンティハンター・エウロスが産声を上げたのだった。 それは同時に、果てしない戦いの幕開けでもあった……。 ……そして、さらに数年後 「おいィ……未来だと思ったら世紀末だったというか鬼なったんだがここは【どこですか?】」 かつて『陰陽鉄学園』と呼ばれた場所で、突如現れた謎の装置からまろび出てきた青年。 彼の到来が、エウロスとなった早苗を、さらなる戦いへと誘う。 これは、自分の全てを失った少女の、反逆の物語   倫理崩壊編 幻想教シナリオ異聞   ―Revengeance of Euros― 新緑の東風が今、戦場を駆け抜ける――