初期サンプル、二体 1  退院まで二週間と言ったはずの医師たちは、なぜか斬の退院を引き延ばして、すでに一ヶ月もの入院になっていた。  お見舞いに行くと調子のいいことを言いながら姿を見せない広治を除けば、のばな、農家など、まとめWikiの友人たちが入れ替わりに見舞いに来てくれる。今日は記憶氏がやってきてアニメ論議に花を咲かせて帰った。しかし、見舞客が帰った後はいつもの救いようのない退屈な時間になる。  斬は病室のベッドに電子書籍の端末を放り出した。入院の時にダウンロードしていた本は読み尽くしていた。ネットができる環境ではなく、新たな書籍を入手するのも難しい。午後の検査や治療の時間まで退屈を紛らわせるのはテレビしかない。  テレビのスイッチを入れた。残念そうな舌打ちをしたのは、どのチャンネルも、マスコミがゾンビ症候群と勝手に命名した、病気の蔓延に関するニュースで埋め尽くされていたからである。 【現在、三重県警によって該当エリアへの立ち入りは禁止されていて、詳しい状況はわかりません。しかし、地元警察に保健所と自衛隊の迅速な対応によって、鈴鹿峠近辺で発生した犠牲者の封じ込めは成功したように見えます】  最初の事件は二週間前。異様な風体の男が新大阪駅に現れた。いや、人間とも言えない。映画で見かけるゾンビそっくりで、その外観は腐りかけて崩れた肉塊に見えた。男はホームで新幹線の車掌に噛みついているところを、駆けつけた鉄道警察の警官が撃つ銃弾を浴びた。しかし、男は死んだかと油断して近づいた警官の首筋に噛みついて、混乱に乗じて姿を消した。  同じ日の夕方、男は新大阪駅から9kmばかり北にある伊丹空港に姿を見せた。閉鎖された無人の空港のロビーを彷徨いたが、捕獲しようと突入した機動隊員三人を負傷させ、大阪の闇に姿を消したのである。  事件が本格的に拡大したのはその後である。新大阪駅で襲われた車掌と二人の鉄道公安官、伊丹空港で負傷した三名の機動隊員は、病院に運び込まれる救急車の中で相次いで意識を失い、病院で死亡が確認された。いずれも、傷口はそれほど大きくはなく、出血もすぐに止まっており、死因は不明だった。ただ、共通して短時間で腐敗が進むような外見の変化がみられたのである。その夜、巡回中の警備員が死体安置室で何者かに襲われ、駆けつけた警官たちは死体だったはずの男たちが、病院内をさまよって患者を襲っている姿を発見した。機動隊やSATだけでは足りず、陸自まで投入して病院は封鎖され、今も陸自の直接管理下にある。  人々を驚愕させたのは、この症状が感染して広がると言うことである。学者たちは今までに無かった症例に頭を悩ませたが、普通の人々は馴染みのある名で分かりやすく「ゾンビ症候群」と呼んだ。     2 「斬さん。治療の時間よ。今日から新しい治療が始まりますからね」  看護婦の言葉は優しいが、その口調は実験用のマウスに、試しに声をかけてみたというような冷たさがあった。  診察室では、数人の若い医師たちが、斬の治療を眺めようと待ち受けていた。内科系の病気だったはずだが、先輩医師はNMRやレントゲンのデーターとつきあわせつつ、斬の体をつつき回しながら若い医師たちに解説を加えていた。先輩や恩師の治療を間近で見学するというのは大学病院でありがちな光景だが、患者としてはモルモットにされているような気がした。 事実、注射薬の瓶や点滴の薬剤が入った袋の白いラベルに記載された簡素な記号は、その薬が商品名を持った既存の薬ではなく、開発中のサンプルの薬剤か、特殊な用途のために特別に調合された小ロットの薬剤だと言うことを伺わせた。  普段の診察が終わった後、奴隷にかしづかれる女王の雰囲気が漂う女医が登場した。今まで診察に当たっていた医師団から、斬の診断報告を聞いて頷いていたが、彼女は優しく笑って斬を眺めた。 「基礎的な治療が終わったので、今日から私が次の治療を担当します」  そう語りかけた女医は、手にしたメスでいきなり斬の手の平を突き刺した。 「何をするんですか」  斬の怒りの言葉を無視したまま、女医は助手に語った。 「被験者はまだ痛みを感じている。怒りの感情も顕している」  助手はその言葉をレポートに書き留めていた。女医は胸のボタンを外した。女医の胸元が露わになり、首にかけた細い銀の鎖にぶら下がった青い小さな宝石をちりばめたペンダントが見えたが、もちろん、男として気になるのはペンダントが豊満な乳房の間で揺れているということである。女医は左手で、斬の血まみれの手を取り、そのままそっと自分の乳房に押し当てた。  その温かく柔らかな感触に、斬は手の痛みを忘れ、心地よい感触に酔った。その感触は股間も刺激して反応させた。女医はそんな斬を観察するように眺めていたが、突然に右手を斬の股間に押し当てて強く揉みしだいた。女医は冷静に状況を述べ、助手はそれを記録した。 「被験者にはまだ性欲がみられる」と。  手の平の刺し傷に貼った絆創膏と、その傷の化膿止めと称する赤黒い液の静脈注射が、この日の治療らしい治療だった。抗議も質問も受け付けてもらえないまま、モルモット状態から解放されて病室に戻ると、見舞いに来ていた農家氏とのばな氏が、ベッドの脇で斬が戻るのをテレビを見ながら待っていた。 【つい先ほど、静岡県警と陸上自衛隊富士駐屯地に動きがありました。ゾンビ症候群の発生エリアはとうとう大井川を超えた模様です。古来言われた『越すに越されぬ大井川」』ゾンビ症候群の発生地域は、その大井川をあっさりと越えました】  斬は大井川の比喩に笑った。以前、バンデミックをテーマにした作品を書こうと資料を集めたことがあり、感染の拡大について知識があった。感染に気づかない患者は、鉄道や航空機、或いは自動車で移動しつつ、他の人々と接触して感染を広げる。都市部やターミ ナルを通じて四方に拡散することが多い。しかし、今回は最初の発生源とみられる大阪で患者の封じ込めに成功したように見えたものの、京都、滋賀、三重県、岐阜、愛知、静岡と発生場所が東へと移動しているのである。しかも、いずれも、都市部や幹線道路から離れた山間部の集落に限られ、通常の感染ルートの拡大ではない。カラスなど野鳥が媒介しているのではとも言われたが感染区域が東にのみ移動する状況は説明できない。 「次の発生場所は山梨かな」  のばな氏がそう言ったのも当然の推測といえた。頷きながら農家氏が言葉を継いだ。 「その次が、神奈川で……」 「最後は東京?」  斬はそう言って肩をすくめて見せた。    3  医療行為か拷問か、区別がつかない治療が続くと、苛々はつのり、治療に当たる看護婦やあの女医に対する斬の意識は腹立たしさを通り越して憎しみにさえ変わっていた。ただ、看護婦はそんな怒りなどそのうち消えてなくなるわと意味深に笑うのみである。女医に治療目的を尋ねても明確な回答はなく、院長を出せと要求しても姿を見せる気配はない。  ただ、斬自身は気づいていないが、見舞客からみれば彼の性格はずいぶん素直に変わっていた。治療に不満があれば、転院するという手段もあるはずだが、斬は「この病院での治療を」という指示に素直に従っていた。  また、斬自身、自覚していることもある。体調が良い。気づかないうちに病院の廊下をぴょんぴょんと飛び跳ねて移動していることがある。今日の治療が終わって病室に戻る途中でも、斬は飛び跳ねていた。この日、治療が終わった直後の不愉快さを解消してくれたのは、編隊氏だった。頼んであった電子書籍の新刊をダウンロードして持参してくれたのである。 「斬さんって、老眼だったの?」  編隊氏がそう尋ねたのは、端末を読む斬の姿勢がいいからである。体と90度の角度で前につきだした両腕で電子端末をつかみながら読む様子は、老眼の老人が新聞を読む様子を連想させたのである。しかし、斬はそれを否定した。 「いや。視力は正常だよ。でも、最近、気がつくと腕を伸ばして読んでるんだ」 「そうなのか。ところで、広治から連絡はあった?」 「いや、病院にも顔を見せてない」 「最近、彼と全然連絡が取れないんだ」  この話題もまた途絶えてしまった。何度も見舞いに来てくれる関係である。長話をするほどの話題もなく、編隊氏は次に新刊のデーターを持ってくると約束して帰って行った。  病室に取り残されると退屈を紛らわすのは読書。そして外の情報を得るのはテレビぐらいしかない。斬はスイッチを入れた。 【どうして、発生箇所が点々と移動するのか、専門家も首をかしげています。もう一度繰り返します。一昨日発生したゾンビ症候群は封じ込められた模様です。山中湖畔より、レポーターのルドルフがお知らせしました】  いつもと同じようなゾンビ症候群に関わるニュースに飽きて、斬はスイッチを切りながら、さっき話題に出てきた広治の事を思い出した。もやもやとした思いの中で心の中が整理されて、感染拡大の謎が解けそうな気がしたのである。 「そういえば」  斬がそうつぶやいたのは、以前、斬は広治から、大阪と東京を結ぶトレッキングコースを踏破した話を聞いたのを思い出したのである。都市郊外の山岳地帯を縫って、その間の集落を通って次の山岳地帯へ入るコース。斬は新聞が置いてあるホールに移動して、新聞に記載された発生場所の地図を日付順に眺めてみた。各地のゾンビ症候群の発生地域は東海自然歩道のルートに一致する。  そして、斬は広治との会話の内容を記憶していた。 「そやな、普通は重いザックを背負ってるけど、荷物がなかったら、普通の人の場合、平坦なコースで一日50km、山岳地帯で25kmぐらいは間違いなく移動できると思うわ」  広治はそう言った。斬は新聞の日付を追った。京都の嵐山付近での発生が16日。比叡山延暦寺での発生が17日、三重県鈴鹿峠付近の発生が18日……。各地域でゾンビ症候群が発生した日程は、広治が語った時間とも一致した。  間違いがない。警察や自衛隊はゾンビ症候群の発生とともに、そのエリアの幹線道路は全て厳重に封鎖しているが、その頃には感染源は山岳地帯に入り込んで、次の集落を目指しているのである。  最後に発生が確認されたのは一昨日の丹沢山系。とすれば、昨日には東京の西の端の高尾山に到達しているだろう。八王子市のこの病院の目と鼻の先である。 (これは、警察に知らせた方がいいだろう)  斬がそう考えてベッドから立ち上がったとき、窓の外の下、病院の入り口で騒ぎが持ち上がっていた。窓からのぞいたときには騒動は病院の中に移動したらしくその原因をうかがい知ることはできない。  斬は心を落ち着けて、事実を整理しようと病室に戻ってベッドに寝転がった、くつろいでいるはずだが、無意識のうちに背筋を伸ばし、両腕を前に伸ばしているのに気づいて、意図して背を丸め、手を頭の後ろで組んでくつろいでいるポーズを作った。くつろいだポーズで心を鎮めようとしたのである。しかし、先ほどの騒ぎは確かに病院の中に移動していたらしい。警報や悲鳴が響いていて、この病室に近づいてくる。  心が落ち着かない苛々で、ベッドから上半身を起こしたとき、病室の入り口から斬に声がかかった。 「やっほー。お見舞いに来たで」  現れたモノ。その顔は明らかにゾンビ症候群の感染を伺わせており、腐りかけて判別できないが、その脳天気な声には記憶があった。 「広治?」 「そうや。わかってくれた?」  腐りかけた口元がゆがんだが、どうやらうれしそうに笑う表情らしい。斬としては広治に大丈夫かと声をかけたいところだが、その笑顔に配慮して、その無惨な外観にふれない質問に切り替えざるを得ない。 「どうして、ここに?」 「自動車で来よかと思たけど、この顔やんか。警官に免許証見せろっていわれたら面倒やからやめてん」 「なるほど」 「新幹線はな、改札口の駅員が逃げてしまいよるし、乗ろうと思たら、車掌がドアを閉めよるねん。腹が立ったから噛みついたったら大騒ぎになって、乗られへんかってん」 「車も、鉄道もダメだったんだ」 「伊丹空港から飛行機に乗ろうと思いなおしてんけど、チケット売り場の係員がみんな逃げてしまいよってん。機動隊が来て大騒ぎやったわ」 「それで、歩くしかなかったと?」  斬の質問に広治は素直にこくりと頷いた。 「大丈夫やで、斬さんに食いついたりせぇへんから。いま、お腹一杯やねん」  そう言った広治は思わずげっぷをして口の中から何かをとりだした。あの女医が身につけていたペンダントである。 「ついさっき、先生を一人、丸ごと食べてきたんやわ」  広治がのほほんと語ったのは、腹を減らしてたどり着いた病院の入り口で、たまたま出会ったあの女医を、生きたまま囓ったという残酷な話だが、斬があの女医から受けた仕打ちを考えれば、よくやったと褒めてもいい気分だった。 「それで、これからどうするつもりなんだ?」 「これからの問題なんやけどな。斬さんもこの病院、気をつけたほうがエエで」  広治の言葉に斬は一連の扱いを思い浮かべると頷かざるを得ない。確かに、この病院は不審な点がある。 「しかし、どうして?」  斬が質問を口にし、広治が答えようとした瞬間、低い銃声がし、残念そうな広治のつぶやきが聞こえた。 「えぇ、一月もかけて会いに来たのに、こんな最後やなんて……」  広治は硬直して動かなくなった。顔はゾンビ症候群特有の症状で崩れて分かりにくいが、大きく見開いた目は無念の表情を現しているようにも見えた。広治の脇腹に刺さった数本の針から伸びた細いワイヤーをたどってみれば、斬の右側にスタンガンを構えた防護服姿の警備員の姿があった。ゾンビを制圧するのに実弾は効果はなくとも、電気ショックは効果があるらしい。 「広治はどうなるんですか?」  斬はそう尋ねたが、突然に現れた防護服姿の男たちは無言のまま、広治を乱暴にストレッチャーに乗せたかと思うと、どこかに運び去って行った。代わって現れたのは、防護服姿の一人の男である。 「心配しなくていい。大事な初期サンプルだ。大阪に送り返せば、向こうの連中が大事に扱うだろう」  男は頭部まで厳重に覆った防護服の中で笑顔を浮かべ、斬に向き直って挨拶の握手の手を伸ばしながら名乗った。 「初めまして、院長のS原です」  そして、防護服の太い指と、斬が前にまっすぐ伸ばした腕が、互いに握手に向かないことを察して苦笑いを浮かべて、言葉を続けた。 「あの男の交友関係を調べると、斬くん、偶然に君の名が浮上してね、君が入院しているここに現れるのではないかと考えて待ち受けていたんだ」 「広治がどう関係してるんですか」 「そろそろ話しても良さそうだ。徴兵制の導入だの何だの騒ぐ輩が多いだろ?」 「左翼が騒いでる集団的自衛権の問題ですか」 「死なない兵士を作れれば、兵士の補充など気にしなくていい。その一つがゾンビ化の研究だったんだ」 「その研究を大阪でしていて、広治はそのモルモットに?」 「脳天気なやつで、油断した我々の隙を突いて逃げ出したわけさ。大阪の連中のゾンビ研究は中止と決まったが、我々、東京チームは成功を収めたようだ」 「えっ、別な研究を進めてるんですか?」 「キョンシーを知っているかね?」 「中国のホラー映画で、少し……」 「アレは死体が妖怪として蘇るんだが、この病院では、生きた人間を不死のキョンシー兵士にする基礎研究を進めていたわけさ」 「生きたままキョンシーに?」  この時、斬は尻に軽い衝撃を感じた。振り返ると、看護婦が彼の尻にメスを突き立てていた。彼女はそのメスを冷静に抜いて血のついていない刃先を確認した。 「先生、被験者は痛みも感じていないようです。傷口からの出血もみられません」 「何をするんだ」  斬は本能的に怒りの表情は浮かべたが、不思議なことに、その感情がわき上がってこない。S原院長はその現象を説明した。 「怒りや恐怖の感情は兵士には邪魔だからね。その点でもキョンシーは都合がいいのさ。あの広治というゾンビは、感情や意志を持っていたろ。あれは失敗作の証拠だ。私が作り上げるキョンシー兵士には個人的な感情も意志もない。ついて来たまえ」  斬は自分の意志ではなく、命じられたまま、ベッドからぴょんと跳びはねて床に降り立った。両腕は前に伸ばし、膝も伸ばしたままの直立不動の姿勢で、つま先で床を蹴って飛び跳ねながらS原ま後を追った。 「大事な初期サンプルだ。大切に扱わせてもらうよ」  斬は薄れる意志の中で、S原院長と取り巻きの医師団の笑い声を聞いた。       おしまい