時の海・悠久の星  荒れることが多いこの海で、久々に静かに晴れ上がった夜空に、星々が輝いていた。 「星座に興味があるのかね」  ウィルソンの質問に、甲板で空を見上げていた陽子が答えた。 「ええ、航海術に関係するから」  ウィルソンはその回答に彼女の性格を推し量ったが、彼女は意外な言葉を継いだ。 「あれがベガ。中国や日本では、愛する夫と1年に一度しか会えない天女の星よ」  この女性は現実性の内側に、ロマンチックな気質を隠し持っているらしい。 「貴方は?」 「私は星には興味がない。ただ、子どもの頃から海が好きで、海軍に入りたいと思っていたものさ。戦史の本を読みふけてたんだ。知ってるかい? この少し南のアリューシャン列島では、昔はアメリカと日本が戦ってたんだ」  興味なさげに首をかしげた陽子に、ウィルソンは話題を変えた。 「海と歴史への興味が転じて、いまの私は海洋考古学者というわけさ」  昔はシベリアとアラスカが陸続きだった。その史実を現代でもっとも体感しているのは、潜水艦乗りかもしれない。何しろ平均的な水深が4000メートルという太平洋から、北極海に抜けるこの辺りは、水深が100メートルほどに過ぎず、場所によっては水深数十メートルである。それだけに、陽子は自分が場違いな場所にいるという意識を捨てきれない。母船デイゴの甲板上、洋子とウィルソンの傍らにあるのは、彼女が操縦する2000メートル級の海に潜る深海潜航艇カマンタ号である。  北欧のバルト海の海底で、巨大な円盤状の部分を持った物体が発見され、UFOではないかと人々の好奇心を誘ったのが2011年のことである。様々な調査が行われているが、2028年の現在でもその正体は人工物とも自然物とも言われて、専門家の意見は分かれている。  同じような物体がベーリング海で発見されたのは、5ヶ月前のことである。条件の異なる海底で同じ物が発見されたということで、人工物ではないかという憶測が高まっていた。アメリカとロシアの海洋研究所が調査に乗り出したが、この辺りの海底は研究者にとって微妙な水深とも言える。ダイバーが潜るには水圧に体を慣らさねばならず、行動に制約を受けるほか、ダイバーが運べる探査機器などたかがしれている。カメラを搭載した無人の潜水艇も投入されたが、水深100メートルの闇の中でカメラの視野が制限され、運搬する探査機器の重量に制約を受けるだけではなく、バッテリー容量の関係で調査時間が制約されるという問題があった。  そこで目をつけられたのが、日本政府から民間に払い下げられて、慣熟訓練中のカマンタ号とその母船デイゴである。深海潜航艇という偏見を取り去って眺めれば、100メートルの水深の海に潜ることが出来、ソナーを始め、基本的な探査機器を備えている。もともと海上の支援母船から深海基地へ物資を運ぶために開発されただけに、その運搬能力は余裕があり、様々な探査機器やその記録装置を装備することが出来た。また、船首のマニピュレーターでサンプルの採取も可能である。何より、人員運搬用のコンテナを装備すれば、ダイビング経験のない者たちが直接に乗り込んで、肉眼で海底を観察することも可能というのは研究者を喜ばせたのである。   この海域で長期の調査中のアメリカの海洋調査船A・E・ジャスト号と合流したデイゴが作業を開始したのは明くる日のことである。二隻の船は、200メートルの距離を置いて停泊する相手が見えないというこの海域特有の濃い霧に包まれていたが、晴れる気配はなく、夕刻近くに、調査の指揮を執るウィルソンは霧の中、調査を開始する決断を下した。予備調査のような物で、カマンタ号による調査状況を確認するのである。今回は操縦者の陽子とウィルソンが操縦室に入って潜る。  大きなトラブルもなく、二人を乗せたカマンタ号は目標物に到着した。 「マッシュルームにしては大きすぎるわね」  ウイルソンは陽子の表現に笑った。確かに、太い軸を持ったキノコに似た形状だが、その傘の大きさは直径60メートルを超えている。強力なサーチライトに照らされてるとはいえ、巨大すぎてその全景を照らし出すことは出来ない。 「もう少し、近づけて」 「確かに、微妙な物体ね」  人工物と断言するには証拠に乏しい。しかし、ダイビング経験が長い陽子の目から見ても、物体の表面の滑らかさ、表面に刻まれた溝の直線性など、自然の光景だと断言するのも気が引けた。 「写真はこのスティックを操作するんだね?」 「ええ、色調は帰ってから補正すればいいわ」  そう言った瞬間、陽子は何かに気づいたように付け加えた。 「ごめんなさい。サーチライトを消すわ」  言葉が行動を伴っていて素早い。ウィルソンは目の前の光景に陽子の行動を理解した。カマンタ号の内外を照らしていた照明が消され、計器類が発するわずかな光の中で、彼らの調査対象は、窓の外の闇の中でぼんやりと光を放って、その外形を露わにしていた。 「発光している。表面を覆う細菌か小動物が発光してるのか」  ウィルソンの妥当な判断に、陽子は彼が科学者として口にしにくい事実を言葉にした。 「あるいは、得体の知れない巨大機械のスイッチが入って、動き始めたのかも。海上のデイゴなら何か分かるかもしれない」  母船のセンサーなら何かをキャッチしているかもしれない。そう考えた陽子だが、次の瞬間に舌打ちをしていた。 「こんな時に、逆転層?」  母船との通信が途絶していた。彼女は海中の温度勾配による逆転層によって、通信の音波が母船に届かないと考えたのである。しかし、通信を妨害したのはそんな自然現象ではなかった。物体の輝きが増すと共に、カマンタ号の内部の計器類の灯りも淡く薄れて消えた。闇の中で物体が放つ光だけが全てだが、その異様な光景を生み出す力が、カマンタ号にも作用したようだった。  同じ頃、海上の母船デイゴでも、船長が通信途絶の事実に気がついた。 「カマンタ号との通信はまだ回復しないのか? ソナーはどうだ?」 「カマンタ号は海底に着底している模様で、海底の地形と区別がつきません」 「船長。A・E・ジャスト号から、接近中の大型船に注意しろと警告が入りました」 「確かに、妙なんです。こちらのレーダーには映っていません」 「故障の可能性は?」 「この海域の漁船は正確にキャッチし続けています。大型船を見過ごす可能性はありません」 「では、A・E・ジャスト号のレーダーがゴーストでも捕らえているのか」 「通信を試みているようですが、相手からは何も返信がないと」 「この霧の中で、何もかも混乱するようだ。通信士、念のため、そのエコーの位置と進路を確認しておけ。こちらでも注意をすると」 「船長。また新たな船影をキャッチしたとのことです」  通信士の声にレーダー手が応じるように言った。 「やはり、本船のレーダーには何も映っていません」 「いったい、何が起きてるんだ」  おそらく、この混乱ぶりは、デイゴからの通信を受け取ったA・E・ジャスト号でも同じだったに違いない。本来なら、とおの昔にキャッチしているはずのレーダーのエコーが、突然に至近距離に現れた不可思議さに加えて、僚船のデイゴでは、これほど明瞭な反射を全くキャッチしていないと言うのである。海上の人々は海底の調査のことも忘れ混乱の中であがいていた。  一方、海中の陽子とウィルソンは、海上の人々の様子を知らずに、そして海上に情報を伝える手段もなく、ただ黙って目の前の出来事を眺めていた。カマンタ号の機器類は停止したが、身辺に危険は感じては居ない。酸素は十分に余裕があり、推進器は動かないが、緊急時は手動でバラストを切り離せば、軽い船体は自動的に浮上もする。ただ目の前の光景の不思議さに魅入られるようだった。物体は光の強弱を変え、発する色を変え、表面の光沢も変え続けて、意志を持った巨大な生き物を見ているようだった。その物体がぐらりと揺れた。陽子がウィルソンに尋ねた。 「物体が海底を離れるみたい。私たちも浮上する?」 「もちろんだ」  バラストを切り離したカマンタ号は急速に浮上し始めた。ぐらりと船体が大きく揺れ、窓の外で海水が滴り落ち、ウィルソンは海上に到着したことを知った。 「えっ?」  陽子が不審そうな声を上げ、操縦室のハッチを開けて飛び出すように外に出ていった。まだ大きく揺れる船体に、足場に苦労しながらも外に出たウィルソンは、陽子が声を上げた理由を理解した。操縦室の小さな窓から判別しにくかったが、海上を濃霧のカーテンが周囲を取り巻くように、巨大な円筒形の空間が晴れ上がって、頭上に夜空が見えていた。見晴らしの良い円筒形の外部は霧が厚くたれ込めているのかもしれず、外部の視界はまったく効かない。カマンタ号はそんな透明な円筒の円周部近くに浮上していた。  陽子は晴れた霧によって円形に切り取られた夜空を眺め、何かがおかしいというように首をかしげた。 「気をつけろ、揺れるぞ」  ウイルソンが陽子に注意を促した。遅れて浮上してきた物体が海面に到達するのである。速度は遅いとはいえ、直径60メートルもの傘を持ったキノコが浮上すれば海面が大荒れに荒れる。二人のそんな当然の覚悟は、拍子抜けに終わった。気づいてみれば、元からそこにあったかのように円盤部分は海上に浮かんでいて、その周囲は何事もなかったかのように小さな波に打たれているのみである。  浮き上がってきた物体が輝き始めるとともに、その外形が揺らいで上部の円盤部分の外形が変化しパラボラアンテナ状の変わったと思うと、一条の眩しい光線が天空に伸びた。わずか数秒の出来事である。気がつけば再び元の形に戻っていた。そして、海上に現れたときと同様に、波も立てずに海面に没して行った。晴れ上がった空間に外部の霧が急速に流れ込むように広がって、彼女たちの視界を閉ざした。突然、操縦室内部から警告音に続いて音声が流れてきた。 「カマンタ号、応答せよ。こちら母船デイゴ」  母船との通信が回復したのである。二人は操縦席に戻って、呼び出しに応じた。 「こちらカマンタ号。通信は回復しました。我々は正体不明物体を追って海上にいます」 「海上? 正体不明物体を追ってとはどういうことだ?」 「ひょっとして、あの光る物体や空に向かって発射された光線を見なかったの?」 「こちらはずっと濃霧の中だ」  伝わってきた船長の言葉に、陽子とウィルソンは顔を見合わせた。二人が目撃した光景を、海上の船の人々は正体不明のレーダーのエコーに振り回されて、見ていないのである。陽子は通信機を操作しながらも、慣れた手つきでパネルの計器やスイッチを確認している。全て正常で、カマンタ号は元の機能を取り戻していた。 「これから帰投します」  視界は遮られて見えないが、通信が発せられた方向に進めば、母船に出会えるはずだ。  3日後、事件の後3回の潜航調査をしたが、あの巨大な物体は海に溶けて消えたように姿を消していた。A・E・ジャスト号も数海里四方の海底の地形をスキャンしたが、該当する地形や物体を発見することは出来なかった。 「結局、あれは何だったのか」  ウィルソンは考え続けながらも、専門家の自分にも結論がでない。首をかしげながら、もう一人の目撃者である陽子に尋ねた。陽子は事も無げに答えた。 「環境データーの収集ロボット」 「どうして?」 「収集していたデーターをどこかに送った。そんな感じがしなかった?」 「環境データーとは?」 「潜水艦キャッチするには大げさすぎる装置だわ。他に海の中でデーター収集するとすれば、地球の環境をモニターするぐらいしかないわよ。そのデーターを定期的にどこかに送信しているのかも」  かもしれないと推測しながら、彼女の口調は断定的でウィルソンを笑わせた。現在の地球の技術ではあり得ず、敵対的な用途の装置でもなさそうだった。とすると、陽子の言う通りかもしれない。 「今頃、宇宙のどこかで地球の環境悪化に同情している宇宙人が居るのかもしれないね」 「いいえ、宇宙人じゃなくて未来の地球人類、あるいは、はるか太古の超文明人」 「空間や時の流れか」  ウィルソンはそう答えつつ何かを思い出すように付け加えた。 「1943年、この海域の南のアリューシャン列島の一つに日本軍が駐留してたんだ」 「こんな北に・・・・・・」 「ただ、戦局が悪化して、アメリカの大艦隊に包囲された」 「それで?」 「日本軍の小規模な水上部隊が島に突入して、全兵士を救出して帰還するのさ」 「島を包囲していたアメリカ艦隊は?」 「それが、不思議なことに、日本軍の突入前に、正体不明のエコーをキャッチして、レーダー射撃で弾薬を消耗して、補給のために基地に帰投していたんだ。」 「別の日本艦隊がいたの?」 「いや、日本軍は交戦しておらず、現在ではアメリカ艦隊はレーダー上のゴーストの座標にむけて砲弾を浪費したとされている」 「今回、A・E・ジャスト号がキャッチしたのと同じゴーストなの?」 「ただ、不思議なことに、旗艦ミシシッピー以下の艦艇では明瞭に捕らえたエコーが、巡洋艦サンフランシスコでは全くキャッチできなかったということだ」 「ひょっとして、サンフランシスコって他の海域から派遣されて来たんじゃ?」 「その通り。南の前線で被った損傷を本土で修理した後、この海域で作戦中の艦隊に新たに編入されたんだ。どうしてそれを知ってるんだい」 「今回のデイゴと同じかなって思ったの」 「つまり?」 「あの機械がこの海域に、何かの影響を及ぼしていて、そこにある物が見えず、ある物から目を逸らすために、無い物が別の場所に見える。というところかしら」 「あの機械が、レーダーに映るゴーストを作り出したというのかね?」 「作り出したゴーストなら、サンフランシスコやデイゴのレーダーにも映るわ。物理的ではなく心に、例えば、この海域に長くとどまっている人たちの精神に作用して幻を見せていたとか、」 「機械が人の心に侵入したのかね」 「ただの推測よ」  陽子は心の中で呟いた。 (たぶん、言っても信じないと思う)  彼女は光が放たれた夜空の星を思い出した。見慣れた星座が無く、ようやく見つけた北斗七星が大きく形を変えていた。ほんの数秒間だが、光が空に放たれた瞬間に彼女たちの頭上に広がっていたのは、はるか未来の夜空である。 「まあ、昔から海では不思議なことがあるってことよ。とりあえず、兵士の救出を成功させた艦隊に乾杯」  彼女はウィルソンの肩を叩いて笑い飛ばした。                            了